この戦いが南北戦争の転換点であったかどうかと言うのはやや疑問の余地がある。確かにこの戦いのあと北軍の優位がゆるぎないものとなったのは事実だが、それは別にこの戦いに勝ったから戦争での優位が確定したわけではない。言い方を変えればこの戦いに勝った時期が北部にとっての転換期であってこの戦い自体が戦争の趨勢を決したわけではない。ではなぜリー将軍はわざわざこの時期を選んで北部へ侵攻したのだろうか?兵力で劣り、装備も十分ではなく、食料さえ満足に行き渡ってなかった北バージニア軍は明らかに北部に侵攻できるような状況には無かった。しかしその反面、この時期を逃してしまったらもはや戦争の趨勢は決まってしまう可能性が非常に大きかったのだ。守ってばかりでは戦争に勝つことはできない上に南部はその「守り」すら満足に行えていなかった。
南部はゲティスバーグの戦いの起こる前の時点ですでに西部地域をほとんど失っていた。南部の最大都市であったニューオルリンズ市はすでに北軍の手に落ちており、ミシシッピ川の交通の要所であるヴィックスバーグもまさに陥落寸前と言える状況にあった。ヴィックスバーグが陥落した後は西部戦線に投入されていた北軍の部隊が東部戦線に送られてくる事は明らかであり、兵力の点では常に北軍に劣っていた南軍にとってはさらに厳しい戦いを強いられる事になるだろうと言うのは目に見えていた[3]。また、北部の海軍によるアナコンダ作戦(南部の港湾を封鎖する作戦で、終戦近くには海に出た南部の船の実に3隻に1隻が拿捕されていた)が功を奏し始めておりもともと高くなかった南部の継戦能力はさらに削られていった。この時点で何らかの一撃を与えなければこのまま南部が北部の物量に『磨り潰されて』しまうだろうと言うことはこの時点で多くの者の眼に明らかだっただろう。当然リー将軍もそれに気づいていただろうし、何度
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してもすぐに兵力を補充して侵攻してくるポトマック軍の相手をしている虚しさにも気づいたであろう。いくら自軍が勝利し続けていたとはいえ北バージニア軍も会戦のたびに多くの兵を失っていたし[4]、人的資源の点で北部に劣る南部はその穴を埋める事がなかなかできなかった。
南部は北部より1年も早く徴兵制を導入していたが多くの徴兵の例に漏れず、大いに不評だった。また、奴隷を10人以上保有している・もしくは監督している市民は徴兵されないとした事もその不満に拍車をかける事となった。要するに奴隷を保有していない貧乏な南部人が奴隷を保有している裕福な南部人のために戦っている戦争だという構図ができあがってしまったからである。物資不足だった南部では十分な物資(武器、弾薬、制服、それに食料など)が将兵に満足に行き渡らなかった事もあり、南軍は常に脱走兵の多さに悩まされていた。結局南軍の場合こうむった損害は他の部隊から兵を(もしくは部隊ごと)引き抜いて補充に充てたり徴兵枠を拡大する事でなんとかしようとしたがあまり成功しなかった。
北バージニア軍を率いて北部に侵攻し、北部の地でポトマック軍に壊滅的な打撃を与える事ができればいくら人的資源が豊かな北部でもまた同規模の軍を編成するのには時間がかかるはずであり、また国内での敗北に衝撃を受けた北部の市民達が1864年の大統領選で戦争継続を叫ぶリンカーン大統領ではなく停戦・和平を旗印に掲げる民主党のジョージ・マクレラン[5]を次期大統領に選ぶ可能性もあった。勿論これは全てうまくいった場合のシナリオであり、リー将軍もそこまでうまく物事が運ぶとは思っていなかっただろう。だが、簡単に言えば南部にはそれ以外に選択肢が無かったのである。ある意味、これはリー将軍が戦争の転換点に近づいてきたと気づき、なんとかその
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を挽回しようとしたがゆえに起こった戦いだったとも言える。
ゲティスバーグは南北戦争最大の激戦だったが、砲撃の激しさもまた南北戦争最大であった。
ゲティスバーグに南軍が残していった小銃を調べてみると、全小銃のわずか二十パーセントしか銃弾を使用していなかった。これは現在とは違って当時は、例え戦時であっても人を殺すことは道徳に反するとされていたと考えられている。(大規模な戦争はまだアメリカは体験していなかったため、人を殺すことを恐れていた兵士が多くいたという説もある)
ゲティスバーグの戦いは世界最後の集団密集突撃が行われた戦いでもあった。
ゲティスバーグの戦いの最後に南軍の大規模な突撃作戦が行われ、南軍は先頭に立った司令官以下陣地の突破に
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した。しかし成功した部隊は150名ほどだったといわれており、結局ほとんどが戦死して失敗に終わった。
戦死者のほとんどは砲撃によるものである。
当時の戦闘を再現するために、現在でも所々に詳細を説明する案内板とともに大砲やその他の武器が多数配置され、全米のみならず世界的に有名な古戦場の一つとして、夏季を中心に多くの観光客・見学者が訪れる。
英:Gettysburg Campaign)は、1863年6月と7月に、南北戦争の東部戦線で戦われた一連の戦闘である。南軍将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍は、チャンセラーズヴィルの戦いの勝利の後で、北に動いてバージニア州、メリーランド州およびペンシルバニア州で攻撃的な作戦を展開した。北軍ジョセフ・フッカー少将とジョージ・ミード少将(6月28日以降)に指揮されるポトマック軍はリー軍を追跡し、ゲティスバーグの戦いで打ち破ったが、リー軍がバージニアに逃れるのを許した。
ペンシルバニア州南部の大半では、ゲティスバーグ方面作戦が「1863年の緊急事態」として広く知られ、州知事アンドリュー・カーティンが緊急に志願民兵の連隊(複数)を起ち上げ、侵略の脅威に対抗した。この軍事作戦で、
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およびペンシルバニア州の何千という避難民が迫り来る南軍を避けて北や東に逃亡し、ペンシルバニア州南部のボロや郡では人口の変動になった。また戦闘での損失は47,000名となり、市民の財産の被害額は数十万ドルに上った。
チャンセラーズヴィルの戦い(1863年4月30日-5月6日)でリーの北バージニア軍が北軍のポトマック軍を破った直ぐ後で、リーは北部への2回目の侵攻を決断した。そのような動きは夏の作戦行動を計画していた北軍を慌てさせ、リー軍にはラッパハノック川の背後に防衛的陣地を布いていた状態から出て、北部の豊かな農園の恵みで食いつないでいくことができ、一方で戦争で疲弊したバージニアには必要とされていた休息を与えるという効果があった。リー軍はフィラデルフィア、ボルティモアおよびワシントンD.C.を脅かすこともでき、北部で盛り上がりつつある休戦の動きを奨励する可能性があった。リーは4月19日に、その妻に宛てて次のように書いた。
...次の秋に、北部では世論が大きく変わっているだろう。共和党は打ち砕かれ、平和を愛する者が強くなって、それを推進する次の政権ができるだろう[1]。
アメリカ連合国政府は、ミシシッピ州ビックスバーグの守備隊を脅かす北軍の圧力をリーが減らしてくれることを望んだが、リーは軍隊を派遣して直接救援するという提案は拒否し、北東部への打撃を集中させる価値を主張した[2]。
基本的にリーの戦略は1862年のメリーランド方面作戦で考えたものと
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だった。アンティータムの戦いの時にリーが軍団指揮官に宛てた有名な命令書(191号)を北軍のジョージ・マクレラン少将が入手し、リーが十分に軍隊を結集させる前に戦わざるを得なかったために、マクレランが侵略軍を打ち破れたという秘密を極く最近に見付けていた。このことで、臆病で効果をあげられないと考えられるもう一人の男、ジョセフ・フッカーに対してなら北部侵攻を成功させられるという自信に繋がっていた。さらにチャンセラーズヴィルの後で、その軍隊に対して最高の信頼を寄せるようになり、彼らならばリーが課す挑戦を成し遂げられると見ていた[3]。
ストーンウォール・ジャクソン中将の戦死にともない、リーは北バージニア軍の大きな2個軍団を新しく3個軍団に再編した。ジェイムズ・ロングストリート中将は引き続き第1軍団を指揮したが、師団の数は減った。ジャクソンが率いていた軍団は2つに分けられ、第2軍団はリチャード・イーウェル中将に、新しい第3軍団はA・P・ヒル中将に率いさせた。これら3個軍団とJ・E・B・スチュアート少将の騎兵師団を併せ、総軍は約75,000名となった。
ジョセフ・フッカー少将のポトマック軍は、7個の歩兵と砲兵の軍団、1個騎兵軍団および砲兵の予備隊がおり、総勢は90,000名以上となった。しかし、エイブラハム・リンカーン大統領は間もなく、フッカーがチャンセラーズヴィルで敗れたことと、リーの2回目のポトマック川北への侵攻に対するフッカーの反応に同意できなかったこととで、フッカーを解任し、ジョージ・ミード少将に置き換えた。
ゲティスバーグ方面作戦では次の戦闘が行われた。
北軍アルフレッド・プリーソントン少将の騎兵隊がリー軍の所在を突き止めるために威力偵察を行い、バージニア州ブランディ・ステーション郊外に宿営していたJ・E・B・スチュアート少将の騎兵隊に夜明けの急襲を行った。南北戦争の中でも最大の圧倒的に騎兵が多い部隊同士の戦いとなったものは、アメリカの大地でも最大のものとなり[4]、両軍に明確な勝利は無かったが、プリーソントンは近くにいたリー軍の歩兵隊の位置を見付けられないままに撤退した。ブランディ・ステーションの結果は南軍の騎兵に北軍の騎兵の力が並ぶようになったという評判を裏付けた。この戦闘後、イーウェルに第2軍団に率いられたリー軍の歩兵隊がマナサス峠(およびその他の近くの峠)からブルーリッジ山脈を越えて北へ向かった。