ポーターの戦線はヘンリー・W・スローカムの師団がその防御を支える陣地に動くことで救われた。日没後間もなく、南軍は再度攻撃を掛け、連携がお粗末であったのに今度は北軍の戦列を崩壊させた。ジョン・ベル・フッド准将のテキサス旅団が、ピケット旅団がその日2回目の攻撃でやろうとして未完に終わった北軍戦列に間隙を作ることを成し遂げた。トマス・ミーガーとウィリアム・H・フレンチ各准将の旅団が到着したが遅きに失し、退却するポーター軍団の後衛を務めたに過ぎなかった。チャールズ・J・ホワイティング大尉の第5アメリカ騎兵隊の1個大隊が大きな損失を受け降伏を強いられた。6月28日午前4時までにポーターはチカホミニー川を越えて撤退し、その後で橋を焼いた[7]。
この2日目に、マグルーダー隊は川の南で小さな陽動攻撃を続けることで、マクレラン軍を欺し続けることができた。北岸で激しい戦闘が起こっている間も6万名の北軍を動けなくしていた[8]。
ゲインズミルの戦いは激しい戦闘であり、七日間の戦いの中でも最大となり、半島方面作戦の中で唯一はっきりとした南軍の戦術的勝利となった。[9]北軍の損失は、投入兵力34,214名のうち、6,837名(戦死894名、負傷3,107名、不明または捕虜2,836名)となった。南軍は投入兵力57,018のうち、損失7,993名(戦死1,483名、負傷6,402名、不明または捕虜108名)となった[10]。南軍の攻撃が北軍のほんの一部(第5軍団、北軍の5分の1)に対して行われたので、南軍は全体に比較的良い形で戦闘を遂行できた。リーとしてはこの戦争で初めての勝利であったが、ストーンウォール・ジャクソンの事故が無ければもっと完璧に勝っていたことだろう。歴史家のスティーブン・W・シアーズは、ジャクソンの方向を誤った行軍やその参謀のお粗末な行動もあったが、リーが午後7時に掛けさせた主攻撃があと3,4時間早く起こっていればと仮説をたてた。そうすれば、最後の瞬間の補強や闇の訪れも無く、ポーター軍団はかなり危険な状態になったはずだった。南軍の著名な砲兵士官で戦後歴史家になったエドワード・ポーター・アレクサンダーが「ジャクソンが到着して直ぐ、あるいはA・P・ヒルの攻撃中に攻撃しておれば、我々は比較的容易に勝利したことだろう。さらにポーターの部隊の大半を捕獲できたことだろう。」という発言を引用した[11]。
しかし、マクレランは既にその補給基地をジェームズ川に移すことを考えていたが、この敗北で狼狽し、大慌てでリッチモンドへの前進を中止し、全軍をジェームズ川に撤退させた。ゲインズミルの戦いとチカホミニー川を越えての北軍の撤退は南軍の心理的勝利となり、リッチモンドの危機は去った[12]。
ゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)は、南北戦争における事実上の決戦。ゲティスバーグ戦役の中核を成し、アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国が総力を結集して、最大の激戦となった。この戦いが転換点となり、合衆国軍が優勢となる(異論もある)。
チャンセラーズヴィルの戦いが南軍の勝利に終わり、勢いに乗ったリー将軍は北部に更なる攻撃を企図した
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はボルティモアやフィラデルフィアでこれを攻略することにより北部の継戦意欲を失わせようとした。折も折、北軍は司令官をジョセフ・フッカーからジョージ・ミードに変更した[1]。6月3日に衝突が始まるとリー将軍は戦場に兵士を集結させ、騎兵を町の北西にある丘陵の尾根に配置した。だが実際には7月1日午前5時から本格的な戦闘が開始されている。それまでは取るに足らない小競り合いがあっただけであった。
ゲティスバーグは当時のアメリカにとってはとても重要な地点であった。それは、ゲティスバーグが鉄道や主要道路が集まる交差点であり、そこを確保できれば戦争を有利に進められることも背景 にあった。つまりゲティスバーグは補給と部隊増強が簡単に出来た場所だったのである。
しかし、実際には南軍、北軍とも動こうとはしなかった。理由としてはここに部隊を送り込むと必然的に衝突が避けられないこと(先に述べたとおり、両軍にとって補給及び部隊集結が容易に出来たからである)、衝突が起こることにより援軍増強による大規模な戦いが予想されたとされる。また、両軍の司令官はこの戦いを望んではいなかったが、6月ごろから起こり始めた小競り合いに尾ひれがつきついに衝突することとなった。
実際のところ両軍とも司令官が遠隔地にあることから意図的にこの戦いを避けていたとも言われる。[要出典]
ゲティスバーグの戦いは6月初旬ごろから起こっていた小競り合いから発展した戦いである。当初勢いのあった南軍は、北軍の勢力下にあったゲティスバーグを偵察する目的から部隊を送り込んだとされる。しかし、先に述べた地理的要因から衝突は頻繁に起こるようになったため、両軍は援軍をゲティスバーグに集結させた。このことにより、運命の7月1日午前5時を迎えることとなる。
7月1日午前5時早朝、南軍の歩兵が北軍の騎兵を射撃したのがゲティスバーグの戦いの始まりとされる。当初はいつもどおりの小競り合いだったが、この日は両軍とも兵力がいつもより多く、大きな戦いに発展した。このとき衝突した部隊は北軍4個騎兵大隊に対し、
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は2個歩兵旅団であった。北軍は援軍を待つ間、兵力面から見ても優勢な南軍の歩兵隊の前進をくい止めることに傾注、結果的にこれに成功した。
この初期の戦いが行われている間、ゲティスバーグの地理を生かし、両軍の大多数の援軍が集結する。午後になると南軍の総司令官リー将軍も到着した。北軍側は騎兵隊の応戦により南軍の進撃を止めていたものの、優勢とはいいがたかった。実際のところゲティスバーグの北と西の尾根の攻防戦では南軍側が優勢であり、この戦いで北軍の司令官レイノルズ将軍が戦死した(砲撃による戦死とされる)。北軍側は後任としてハンコック将軍を任命した。ハンコックは防衛戦闘に優れる指揮官で、ゲティスバーグの南の丘に陣地を構築させ、さらにカルプス・ヒル、セミタリー・ヒル、セミタリー・リッジ、ラウンド・トップ、リトル・ラウンド・トップの防衛線を築いて守備隊を配置した。この防衛線によって、数キロにも及ぶ味方との連絡や援軍の増派がきわめて容易に行えるようになり、戦闘が有利に運ぶもととなった。不利であった北軍は徐々に勢力を盛り返し、均衡を保つことに成功した。
南軍のリー将軍は、北軍の陣地の構築が終わる前に攻撃をかけるべきだと判断し、配下の将軍に命令を出した。しかし、命を受けた将軍は南軍の損害を過大に評価しておりこの日の攻撃を中止した(7月1日)。この日の夜、北軍司令官のミード将軍がようやく戦場に到着する。彼は戦況を把握するとハンコック将軍が築かせた陣地を主体に防衛戦を続行することを決断した。
攻撃を中止していた南軍は2日の早朝に攻撃をかけることを目標としていたが準備に手間取り、結局一日の終わりに近い午後4時ごろになって攻撃体制が整った。このことは北軍の有利に結びつくはずだったが、北軍ではシクルズ将軍の判断ミスにより、セミタリー・リッジより南側の守備軍を配置換えし、最前線に移動させていた。
この配置換えで手薄になったリトル・ラウンド・トップ陣地に南軍が攻撃を開始した。北軍はまたもや戦況不利となる。しかし、たまたまリトル・ラウンド・トップ陣地に通信兵がおり、南軍の行動をいち早く察知し報告、このとき戦況把握をしていたウォーレン将軍がこの情報を受け南軍の動きを確認した。リトル・ラウンド・トップ陣地が陥落すれば、北軍の戦闘不利が決定的であると察知したウォーレンは、出来る限りの部隊を移動させた。このとき移動させた部隊は数隊だったとされる。南軍の攻撃は熾烈をきわめ、陣地の近くの森と草原において展開された。ここで起きたリトル・ラウンド・トップの戦いはゲティスバーグの戦いの中でもっとも激しかったと言われている。
4時間にわたる熾烈な戦闘が行われたが、北軍のミード将軍の巧みな戦闘指揮により南軍は陣地の突破に失敗した。このとき北軍は兵力が不足していていたが、ミード将軍は南軍が突破しようとする所を変えるたびにその場所へ兵を移動させたのである。このころになって、この戦いに呼応するかのように、北側でも南軍の攻撃が開始されたがあっけなく敗退した。
リー将軍は三日目の戦いも基本的には二日目の戦いと同一線上で行なう構想だった。即ち、ロングストリート将軍は北軍左翼を攻め、イーウェル将軍はカルプスヒルの北軍を攻撃するというものである。しかし、ロングストリートが攻撃準備を完了する前に前日の失地奪還を意図する北軍第12軍団のカルプスヒルへの砲撃が開始された。これに対し南軍のカルプスヒルへの2回目の攻撃が実施され午前11時迄7時間の苦しい戦いが継続された。
これによりリー将軍は作戦構想の変更を余儀なくされた。修正後の作戦ではロングストリートは揮下の第1軍団所属のジョージ・エドワード・ピケット将軍が率いるバージニア師団に、ヒルの軍団から抽出した6個旅団を加え、セメタリ-リッジに陣取る北軍左翼中央部の北軍第2軍団に対し攻撃を加える事になった。また、この攻撃を支援する為、南軍砲兵による北軍前線に対する砲撃が行なわれる事になった。
午後1時に170門の野砲による南北戦争最大規模の
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が開始された。砲撃に続いて実施されるであろう歩兵突撃に備え貴重な弾薬を節約する為、北軍砲兵は当初対抗射撃を行なわなかったが、15分程たってから、北軍野砲80門程が砲撃戦に加わった。大規模な砲撃ではあったものの南軍は弾薬不足で北軍に大きな損害を与える迄に至らなかった。
午後3時頃、砲火が静まり12,500人の南軍歩兵が姿を現して、1200メートル離れた北軍前線への前進を開始した。世に言う「ピケットの突撃(ピケット・チャージ)」である[2]。激しい砲撃と北軍第2軍団からの銃火により、突撃した南軍兵士の過半数は自陣に帰還する事は無かった。北軍の前線は動揺し、防御用の低い石壁が部分的には破られたが、戦線への兵力増強が成功し、南軍の攻撃は撃退された。
この日は顕著な騎兵戦が2箇所で行なわれた。スチュアート将軍の騎兵部隊は南軍左翼の防御と歩兵戦の戦果を更に拡大し、北軍補給線と通信線を脅かす為、北軍右翼を迂回し、ゲティスバーグの5km東に進出し、ここで北軍騎兵と衝突した。グレッグ准将の騎兵師団とカスター准将の騎兵旅団である。長い互いにサーベルを交わす激しい白兵戦が戦われた。南軍ハンプトン旅団に対するカスターの突撃は南軍の攻撃を鈍らせ、北軍後背を脅かすという
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の目的を妨害する事となった。
一方、ピケットの突撃の後、ミード将軍は、キルパトリック准将に対し、ビッグラウンドトップ南西のロングストリート軍団歩兵陣地に対する騎兵攻撃を命じた。キルパトリック准将揮下のファーンズワース准将は、この行動の無益さを指摘し抗議したものの命令に従って攻撃を敢行したが、ファーンズワースの指揮する旅団は大きな損害を受け、自身も戦死した。
3日合わせての死傷者(及び行方不明者・捕虜)は両軍合わせて50,000人近くにもなった。被った損害は両軍とも同程度だったものの人的資源に劣る南軍にとっては「死傷者2万3千」は非常に大きいものだった。それに対して徴兵可能人口で南部に大きく勝る北軍は比較的すぐ人員を補充することができ、後にグラント将軍がリー将軍に相対したときはこの人的資源の優位を可能な限り(場合によっては必要以上に)利用してリー将軍に対して最終的な勝利を収めている。しかも南軍の侵攻を食い止める、南部に追い返す事に成功した北軍に対し、南軍は特にこれと言った目的を達成していない。戦闘自体は贔屓目に見れば引き分け・もしくは総兵力で劣る南軍が健闘したと言えなくもないが攻勢に出る前にリー将軍が南部首都でディヴィス大統領らに説明した「東部戦線での攻勢は西部戦線の危機的状況を救う」と言う状況は現実化しなかった。
それどころかそれまでなんとか北軍の攻勢に耐えていた西部戦域の要所であるヴィックスバーグはゲティスバーグの戦いが終わった次の日(1863年7月4日)、籠城むなしくグラント将軍に攻略されてしまう。ヴィックスバーグの攻囲戦は5月18日に始まったため、2ヶ月近く耐えた後での開城だった。この敗北によって南部はミシシッピ川より西の州(テキサス州、ルイジアナ州、それにアーカンソー州)との交通をほとんど遮断されてしまう。この危機的状況を打開するため南軍司令部は敗北したと言えまだ余力のあるリーの北バージニア軍からロングストリートの軍団が抽出し、西部戦線に派遣している。ゲティスバーグの戦いで多くの兵を失った上に1個軍団を
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されてさらに兵力を減じた北バージニア軍はそれ以降大規模な攻勢に出る事ができなかった。自軍から兵力を抽出される事を嫌ったリーはこのあと一回だけ小規模な攻勢を仕掛けているが(ブリストー駅の戦い)その時は自身が戦場にたどり着く前に戦闘は終結していた。ちなみにこの戦いでも南軍は敗北している(逆の言い方をすればリーは攻勢に出たときはすべて最終的に敗北している)。