ジャクソンはポープ軍を戦いに引き込むために、8月28日[19]にウォレントン・ターンパイク上のジャクソン軍の前面を通過中の北軍縦隊に攻撃を掛けさせた。ブローナーの農園の戦いは数時間続き、引き分けに終わった。ポープはジャクソンを罠に嵌めたと思い込むようになり、自軍の主力をジャクソン軍に集中させた。8月29日、ポープは未完成の鉄道路盤に沿ったジャクソンの陣地に一連の攻撃を掛けさせた。この攻撃は両軍に大きな損失を出させ、北軍は撃退された。正午、ロングストリート軍がサラフェアギャップから戦場に到着しジャクソン軍の右翼に就いた。
8月30日、ポープはその攻撃を再開させたが、ロングストリート軍が到着したことを知らないかのようだった。ポーターの第5軍団による北軍の攻撃を南軍の集中砲火が砕いたとき、ロングストリート軍28,000名からなる右翼が反撃を行ったが、これは南北戦争の中でも最大の同時集中攻撃になった。北軍の左翼が崩壊し、ブルラン川の後方に撤退した。北軍後詰め部隊の効果的な行動により、第一次ブルランの戦いのような惨事の再現だけは免れた。それでもポープ軍のセンタービルへ向けた撤退は慌ただしいものだった。翌日、リーは自軍に追撃を命じた。この戦いは北バージニア方面作戦の中でも決定的な戦いだった[20]。
ジャクソンは、ブルランからの北軍の撤退を遮断することを期待して大きな回り込み行動を行った。9月1日、ジャクソンは、オックスヒルに近いリトルリバー・ターンパイクのシャンティリー・プランテーションの向こうに、フィリップ・カーニーとアイザック・スティーブンス各少将の師団に対して自軍の師団を送った。南軍の攻撃は激しい雷雨の間の激闘によって止まった。北軍のスティーブンスとカーニー両将軍は戦死した。ポープはフェアファックス・コートハウスにいる自軍がなお危険な状態にあることを認識し、ワシントンまでの撤退続行を命じた[21]。
北バージニア方面作戦は、リーの小さな軍隊がその資源を慎重に使ったものの、両軍共に高いものについた。北軍75,000名の損失は16,054名(戦死1,724名、負傷8,372名、不明又は捕虜5,958名)となり、2ヶ月前の七日間の戦いの損失に相当するものになった。南軍48,500名の損失は9,197名(戦死1,481名、負傷7,627名、不明又は捕虜89名)だった。
北バージニア軍はその勢力の2倍に相当する大きな士気の高揚を得た。それはアポマトックスでの降伏まで失われることはなかった。また、軍隊におけるリーの自信とリーに対する軍隊の自信は、誰もどちらが大きいと言えないくらい等しいものだった。
?エドワード・ポーター・アレクサンダー、南軍のために戦う[22]
この方面作戦はリーとその主要な2人の部下の勝利となった。軍事歴史家ジョン・J・ヘネシーは、リーの最大の方面作戦だったとして、「彼がかってなした中でも戦略と戦術の幸福な結婚」と表現した。リーは大胆な行動と適切な用心深さのバランスを取り、その部下の役割を効果的にする方法を選んだ。ジャクソンの回り込み行動は(36時間で54マイル (86 km)を行軍して北軍の後に回った)、「この戦争でこの種の行動としては最も大胆なものであり、ジャクソンならではそつなく実行できた。」8月30日のロングストリートの攻撃は「時機を得、力強くまた迅速であり、これまでに無いぐらい北軍を崩壊の瀬戸際に追い込んだ。[23]」
リーに翻弄されたポープは事実上ワシントンで包囲された。もしポープがリンカーン大統領に政治的および個人的に密接な繋がりが無かったとすれば、彼の軍人としての経歴は完全に終わっていただろう。ポープはその代わりに、ウィスコンシン州ミルウォーキーに転任させられ、北西方面軍の指揮に就き、1862年のダコタ戦争を戦った[24]。ジョージ・マクレラン少将はワシントン周辺の全北軍の指揮官となり、そのポトマック軍は1862年9月12日に解体されたバージニア軍を吸収した。
ポープがもはや脅威でなくなり、マクレランはその軍隊を再編した一方で、リーはその軍隊を西方と北方に向け、9月4日にポトマック川を越えてメリーランド州に入り、メリーランド方面作戦およびハーパーズ・フェリーの戦い、サウス山の戦いおよびアンティータムの戦いへ向かって行った[25]。
クレーターの戦い(クレーターのたたかい、英:Battle of the Crater)は、
外国為替
のピーターズバーグ包囲戦中に起こった戦闘である。1864年7月30日、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と北軍ジョージ・ミード少将のポトマック軍(総司令官ユリシーズ・グラント中将の直接監督下にあった)との間で行われた。
北軍は数週間の準備期間の後の7月30日、アンブローズ・バーンサイドが坑道に仕掛けさせた火薬が爆発し、ピーターズバーグの南軍防御線に隙間を開けた。この幸先の良い開始とは裏腹に、全てのことが攻撃側の北軍にとって急速に悪い方向に進んだ。次から次と部隊が爆発でできたクレーターの回りや中に突入し、兵士達は混乱の中に取り込まれた。南軍は素早く体制を立て直し、ウィリアム・マホーン少将が率いて数度反撃した。隙間は埋められ、北軍は大損失を出して撃退された。アフリカ系アメリカ人の兵士からなるエドワード・フェレーロ准将の師団がこっぴどくやられた。この戦闘はグラントにとってピーターズバーグ包囲戦を終わらせる最高のチャンスだったはずである。実際にはその後8ヶ月も続く塹壕戦となった。バーンサイドはこの失態の責任を取らされて解任された[1]。
戦闘前に塹壕に入った北軍兵ピーターズバーグの包囲戦中、両軍はリッチモンドに近い古いコールドハーバー酒場の戦場からピーターズバーグの南まで、全長20マイル (32 km)にも伸びた一連の防御を施した陣地と塹壕に沿って並んだ。
ピーターズバーグを包囲しようとするグラント
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をリー軍が6月15日に妨害した後、戦闘は膠着状態だった。グラントはリー軍の防御を施した陣地に攻撃を掛けることについて、コールドハーバーで厳しい教訓を得ており、リー軍の塹壕や砦で行動が取れなくなったことにいらいらしていた。ここで、アンブローズ・バーンサイド少将第9軍団に属する第48ペンシルバニア歩兵連隊の指揮官ヘンリー・プレザンツ中佐がこの問題を解決する新しい提案を申し出た。
プレザンツはペンシルバニア州の市民であるときに鉱山技師であり、南軍の前線下に長い坑道を掘り、南軍の第1軍団前線中央にある砦(エリオット突出部)の真下に爆弾を仕掛けるという提案をした。これが成功すれば、その地域の守備隊を殺害するだけでなく、南軍の防御線に穴を開けることになるはずだった。十分な北軍の兵力でその隙間に素早く侵入し南軍の後方に入り込めば、南軍はその部隊を追い出すだけの部隊を集中できないであろうから、ピーターズバーグは陥落するというものだった。バーンサイドは1862年のフレデリックスバーグにおける敗北や、この年早くのスポットシルバニア・コートハウスの戦いでの不手際でその評判が損なわれており、その評判を回復するためにもプレザンツの提案に乗った。
坑道の火薬を検査するプレザンツ中佐。当時のスケッチ掘削は6月下旬に始まったが、グラントやミードですらこの作戦を「単に兵士を休ませないでおく手段」と見ており、その戦略的価値は疑っていた。2人は直ぐに興味を失くし、プレザンツは間もなくその計画に必要な資材の欠乏に気付いた。その兵士達は坑道を支える木材を調達に行かなければならなかった。しかし、作業は着実に進行した。手作業で掘り出した土は取っ手の付いたクラッカー箱から作られた間に合わせの橇に詰めて運び出され、坑道の床、壁および天井は放棄された製材所や古い橋の解体片からも集められた木材で支えられた。坑道は南軍の前線に近付くにつれて上向きとなり、湿気で坑道が塞がれないようにした。入り口近くに置かれた巧妙な空気交換装置を介して新鮮な空気が坑道に吹き込まれた。抗夫達は常に単一の通気孔の底で火を燃やし続け、その先端が北軍前線の後方に出ていた。一方、木製の導管がトンネルの全長に渡って走っていた。火が澱んだ空気を過熱させ、通気孔を通して坑道の外に排除させた。その結果生じる真空状態で坑道口から新鮮な空気を引き込み、木製導管を通して抗夫達が働いている場所に送られた[2]。このことで通気管を別に設ける必要がなく、掘削の進行を隠蔽する役にも立った。7月17日、主抗が南軍陣地の下に到達した。坑道を掘っているという噂は直ぐに南軍の耳にも達していたが、リーはそれを信じようとせず
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も放置した後で、抗敵坑道を掘り始めたが、みずぼらしく協調も取れていなかったので、敵の坑道を発見できなかった。しかし、ジョン・ペグラム将軍はその砲台が爆発点の上になるはずだったが、この脅威を真剣に捉えて、予防処置としてその砲台の背後に新しい塹壕線と砲台を構築した。
坑道はT字形をしていた。接近のための坑道は全長511フィート (156 m)あり、丘の斜面を降った窪んだ場所から始まり、南軍砲台の下50フィート (15 m)はあったので、検知は難しかった。トンネル入り口は狭く、幅3フィート (90 cm)、高さ4.5フィート (137 cm)しかなかった。そのどん詰まりで直角方向の通路があり、両側に75フィート (23 m)ずつ伸びていた。グラントとミードは後に第一次ディープボトムの戦いと呼ばれる失敗した攻撃の後で突然、この坑道が完成すれば3日後に使うという決断をした。北軍は火薬32樽、総計で8,000ポンド (3,600 kg)を埋め込んだ。爆発は南軍工作物の下約20フィート (6 m)で行われ、T字形の溝は通路内側の土11フィート (3.3 m)で埋められ、主通路は32フィート (10 m)は埋められてしまうので、爆風が坑口に及ぶのを防げた。7月28日に火薬の充填が終わった。
北軍戦線から見た爆発のスケッチ7月30日朝、プレザントが導火線に火を付けた。しかし、坑道の場合と同様に導火線としては粗末な材料しかなく兵士達が自分で撚り継ぎしたものだった。予定した時刻になっても爆発は起こらなかったので、第48連隊から2人の志願者(ジェイコブ・ドーティ中尉とハリー・リーズ軍曹)がトンネルに這って入った。2人は導火線の火が継ぎ目で消えているのを発見し、新しい導火線を繋ぎ直してそれに火を付けた。午前4時44分、
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に爆発が起こり、大量の土、兵士、および大砲のシャワーが降り注いだ。長さ170フィート (52 m)、幅80フィート (24 m)、深さ30フィート (9 m)のクレーター(現在でも残っている)が生じた。250名ないし350名の南軍兵が爆発で即死した。
しかし、戦闘の前日にあったミードからの干渉のために、作戦は初めからうまくいかなった。バーンサイドはエドワード・フェレーロ准将の下に合衆国有色人種部隊の師団が攻撃を先導する訓練をしていた。この部隊はクレーターの縁を回って移動し、続いて南軍前線に開いた裂け目を扇形に拡げる訓練を受けた。バーンサイドはその後に白人部隊からなる他の2個師団を送り込みフェレーロ師団の側面を支援しながらピーターズバーグに急行するという作戦だった。
ミードはこの作戦に自信が持てず、攻撃が失敗して黒人兵が必要もなく殺された場合に北部で政治的反動が起こると考え、バーンサイドには攻撃の先導に黒人部隊を用いないように命令した。バーンサイドはグラント将軍に抗議したが、グラントはミードの肩を持った。バーンサイドは師団指揮官達に籤を引かせて置き換える白人師団を選択した。ジェイムズ・H・レドリー准将の第1師団が選ばれたが、レドリーは部隊兵にこれから起こることの説明ができず、戦闘中に酔っぱらっていたとも伝えられ、隊列のかなり後方にいたので、十分な指揮も執れなかった(レドリーはこの戦闘中の行動で後に解任されることになった)。
レドリーの訓練されていない白人師団はクレーターの縁を回って移動する代わりに中に割って入った。彼等はクレーターが優れた射撃壕になり、遮蔽物にもなると考えたので、クレーターの中に降りていったために貴重な時間を失い、そのことでウィリアム・マホーン少将が反撃できるだけの兵士を集める余裕を与えてしまった。約1時間以内に南軍兵はクレーターの縁に結集し、ライフル銃と大砲の弾をクレーターの中に注いだ。マホーンは後にこれを「ターキーショット」(七面鳥を狙う射撃、とても簡単なことの譬え)と呼んだ。作戦は失敗したが、バーンサイドはその損失を少なくする代わりに、さらにフェレーロの師団を送り込んだ。この部隊もクレーターの中に入っていき、その後の数時間、マホーンの兵隊やブッシュロッド・ジョンソン少将の兵士および砲兵隊が、クレーターから逃げようとする第9軍団の兵士をなぶり殺しにした。幾つかの北軍部隊は前進してクレーターから土塁の右側面に回り込み南軍の前線を襲って数時間の白兵戦で南軍を後退させた。マホーンの南軍が北軍の入ってきた右側から約200ヤード (180 m)の窪んだ溝からの掃討を実行した。この突撃で土塁を取り戻し北軍を東方に追い返した。